40乗合バス 乗り合いバス
昭和の初期に武蔵村山市の現在の埼玉銀行前から東村山駅まで定期バスが運転されていました。お客は朝と夕方位で先生や学生、役場の人が東京へ出る時などが主で、日中は買物客がたまに乗りました。
芋窪バスといわれ、お客は乗る時か降りる時に行先を言って運転手にお金を払います。全ヨースで三十銭、後に四十銭になり、一日八往復位でした。動き出すとお客はしっかりと窓ぎわにつかまります。道は砂利道で雨が降れば大きな穴があきます。凸凹道をよけながらの運転で、中のお客はおどりをおどるようでした。
車はT型フォードの箱型で座席は両側にあり、十五人乗り位で車体は青色に白線が一本鉢巻に入っていました。鹿島さまの前に車庫があり、一番大変なことは冬のエンジンかけでした。クランクで手に豆が出来るほど回さないとかからず、やり方がまずいと手をたたかれて骨を折ることもあります。
停留所も幾つかありましたが、手を上げるとどこでも止ってくれます。花見時になると臨時に貯水池に車を出しました。定期バスが終ってから行くのですが、他にあまり乗り物がなかったのでこの時ばかりは鈴なりのお客でした。
芋窪バスが運行する前は、貯水池の工事が終って、大正八年頃に、何人かの共同出資で村山通りを芋窪から東村山市まで、後に横田まで区間をのばし村山乗合バスが走っていました。利用者が少く、いつも運転手と助手の二人のことが多く「しじゅう二人のりバス」と言われていました。経営不振で経営者が変って芋窪バスになったのですが、これも何年かの後に西武に売却され、次第に今の姿へと新しくなっていきます。(p91~92)